昭和五十七年十月五日 朝の御理解
御理解 第八節 「子供の中にくずの子があれば、それがかわいいのが親の心じゃ。不信心者ほど神はかわいい。信心しておかげを受けてくれよ。」
「信心しておかげを受けてくれよ」という中には、いろいろ内容があると思いますね。ただ信心、お願いをしておかげを頂くという。また信心して生きる力とでも申しましょうか、そういう力を受けてくれよと。また信心しておかげを受けてくれよということは教祖の神様の御教えの全部と言うてもいいでしょうけれども。徳を受けてくれよということ、徳によるおかげの世界を知ってくれよ、分かってくれよというふうに私は頂いております。ただ信心のない人が「神様」とこうお願いをする気になりゃあ、やっぱり信心してということでしょうからまあおかげを受ける。
だから本当の神様の願いと親の願いというものは、神様が十分のおかげを下さることの出来れる氏子、そういう氏子に育つということ。それが本当の神様の願いじゃないかと思うんです。おかげを頂くという、力を頂くという、お徳を受けるという、まあどれもおかげですけれども。
昨日神愛会で先生方の、まあ真剣な御取次の場での御信心、またはおかげ話を聞かしてもらったんですけれど。石動の宮田先生が発表なさっておられる中に、先だって、今の松本幸四郎兄弟の勧進帳をテレビで、まあ見たと言うのです。そりゃもう今の歌舞伎界では今の勧進帳は松本幸四郎達の勧進帳が一番最高だというふうに言われておられますけれども。「もう最高芸術であるはずの勧進帳を見て一つも感動が湧かなかった」とこう言う。
先だって合楽教会で見て、「ここの先生方の勧進帳にはもう感動のしずくめであった。どういうことであろうか」というようなことであった。そして分かったのは、「とにかく親先生に喜んでさえもらえばと、親先生に喜んでもらいたいという一念が、あの、見ておって私に感動を、まあ与えてくれたんだ」ということを言って。「まあ親先生に喜んで頂くということは大変なことだ」と言っておられますね。
今日の御理解で言うと「無信心者ほど神は可愛い」まあこれは親の情から言うても「子供の中に屑の子がおれば屑の子が可愛いのが親の心じゃ」という親心であるね。
信心しておかげを受ける。信心して力を受ける。信心してお徳を受けるということは、その親の心が分かり親神様の思いが分かり、その親神様にね、喜んでもらいたいの一念が信心になった時に、まあそりゃ大変なものだということなんですよね。宮田先生が言おうとしておられるところはそこだとこう思うです。親先生に喜んでもらおうということはもう大変なことなんだと。しかも、みんなの人達がその、その思いだけで、なら勧進帳を演じておる。
最高の名演技であり、名優達が…それを見ても感動が湧かなかったけれども、合楽の勧進帳を見たら、感動のしずくめであったね。そしてまあ生まれた結論は、とにかく親先生に喜んでもらいたいの一念だと。してみると、その親先生に喜んでもらいたいというその一念を起こすということは大変なことなのだと言うことであるね。 そこで、なら親先生にまあ喜んで頂くという思いがね、天地の親神様に喜んで頂くという一念を起こした時、初めてね、親子の一つの情念、天地の親神様と私共との思いの念というか、思いのたけがこう交流する時であるね。
「おかげを受ける、力を受ける、お徳を受ける」とこう言う。だから教祖様が天地金乃神様から受けられたのは全てお徳である。そのお徳を受けてくれよと。信心すれば誰でもおかげが受けられるとも教えておられる。なら、そういう信心とはどういうことかと言うとね、親が喜んでくれればという一念がね、まあここでは親子の情念を以て説いてありますから。
そういうふうに「屑の子ほど可愛いのが親の心である」とおっしゃるように天地の親神様と私共との間にも、段々おかげから、力からお徳と、こう信心の過程を踏んまえながら信心を進めていくと、いわゆる天地金乃神様のそれこそ手にも足にもならせて頂きたいというような一念がおこってくるわけ。天地の親神様のお喜び頂けることならというその思いが強なってくるわけであるね。
そこで言うならば、その神様の願いにも応えるというところからですね。まあ応えたいという一念がです。ならどういう信心の形に表れてくるか。また表れて来なければならないかということですね。天地の親神様のお心が分かるね。そのお心に応え奉る信心とは、もうここでは私が今言おうとしておるところは、お徳を受ける。お徳の世界にね、入っていくためにはその天地の親神様のお心が分からにゃいかん。そのお心に添い奉ろうとする一心発起をなされなきゃならんという。
私は昨日、まあこの頃お話がすんだら、早くから夜は引き上げますから、一緒にいつも食事も取りよったけど、もうこの頃は全然それが出来ませんもんですから、御無礼して裏へ下がって、そして御祈念をして寝させて頂いたんですけども、ははあこのみ教えにはこういう深さがあったんだなあ。こういう意味もあったんだなあということを改めて分からして頂いて、まあ今日の御理解を頂いて頂きたいと思うのですけれども。
以前にあの「味苦魅楽」という御理解を頂いたことがございますね。「味苦」というのは味わい。味の素の「味」というと、苦労の「苦」とこう、「味苦」と書く。「魅楽」というのは楽に魅せられない。あの魅力を感ずるの「魅」である。楽に魅せられない。それ頂いて素晴らしいことだなあと私思ったんですよねえ。
本当に難儀な、苦労と思っておるその苦労の中に味わいを味わえとこう言う。そしてまあ楽な、一つの誘惑には負けてはならない。自分から求めて楽どもしようという気にはなってはならん。もう楽はさせて頂くもんだというふうに、まあ私は観念しておりますね。 ですから、もうそれだけでも素晴らしいことだとこう思うんです。それでも、ならその知ってるんですけどもね、味わい方が浅い。例えば苦労なら苦労の味わい方が浅い。いや実際「味苦魅楽」とこう教えてあるけれども、なら苦労から逃れたいとは思うけれども、その苦労の味わいを味わおうとは思わない。
どうぞこの難儀から、この苦労からね、早く逃れたい。病気なら病気をする。早く全快のおかげを頂きたい。お金がないなら本当にお金に不自由せんですむようなお繰り合わせばっかりを願うね。味苦ということに取り組んでいない。
ところが、昨日私が頂きましたことはね。その氏子がその苦しみの味わいを分かろうと努力することこそ、神の心を分かろうとすることだということでありますね。どんなに難儀であってもその難儀な中から逃れたいというのであっては苦労の味わいにはならん。ただそこを苦労を抜け出ただけのことである。おかげを受けたというだけのことである。その苦労の味わいを、しかもそれを深く広くその中に分かろうと精進する心ね。それが神様の心をいよいよ深く広くわかろうとする精進。そういう信心が神様がほとほとと見とれなさるという感じですね。
私共が本気で難儀のその苦労なら苦労の味わいを分かろうとね。その苦労の味わいを分かろうと精進しておる様子にも、神様が言うなら喜んで下さるのですね。そしてそこに、なら、私共が分かった時です。初めて神様との、言わばそこが分かってくれたかというね。そこから、なら神様はね、与えずには止まない。おかないと思われておったものを頂けるのがお徳だと思うんです。こりゃー私そのことを昨夜頂いてね、こりゃも大変な事だなあと思いましたね。
苦労から逃れよう逃れようという心じゃなくて、その苦労の味わいを、いよいよ分かろう分かろうとこう努める心に、神様がね、まあ喜んで下さるのですね。親先生が喜んで下さえすればという一念がね、ああいう感動を与えずにおかないというお芝居になっておって、そこで分かったのは、先生が分かったのはね、「もう親先生に喜んでもらいたいということは大変なことだなあと分わかった」と言うのです。
今日私が皆さんに言っておるのはね。天地の親神様が喜んでさえ下さればという一念をね、もらしたらもう大変なことだということです。神様が憎うてこの手が当てられようかと思われるような痛い思いも、苦しい思いもね。神様は憎うてじゃない。それこそお徳を下さろうとする働きであると分かる時ね、そこが分かった時です。神様が喜んで下さる。神様に喜んでもらえさえすればこのくれな苦労はこの位な修行は、もう全然問題もそれが有難くなってくるね。 まあ私のお話の中に、私はもうお金で難儀をいたしました。修行が殆どですけれどもね。本当に貧より辛いものはないというように私は感じましたが。その借金の断りもです。行くたび行くたびに嘘になるのですから、なかなかもう本当に行きづらい。行きづらいというよりも、もう本当にやっぱ難儀です。借金の断りぐらい辛いことはないです。
「はあよかですよ」と向こうが言うてくれりゃいいですけれどもね。もう最後には「また嘘を言いに来たか」というような言い方をされるんですね。また嘘なもんですから実際、払えんのですから、それでもやっぱりいついつと約束しとるから、いついつには断りに行かなきゃならない。もうそれこそ這うことも立つことも出来んような思いで借金の断わりに行っておる時に、いつも聞いて頂くようにね。お相撲さんがね、鍛えられる姿をお話に聞かしてもろうて、もうとにかくもう、あの這いも立ちもきらんようになってるとを、またその土俵の真ん中へ連れていっといて、まあ叩いたり、まあ転がしたり。見てはおらないね。
そういうような、例えば修行を何の為にさせるのかと。もうこれはつまらんと思うのを鍛えるはずがない。これは少し鍛えれば、少し、まあそれこそ末は横綱か、大関かという位な願いがあればあるほど、その鍛え方はひどいね。それが私は分かった。その話を聞きながら、ははあ今私が這いも立ちもきらんような難儀な思いをしておるけれども、これは神様が、まあ末は横綱か、大関か、という願いがあるからこそのこの鍛えを頂いておるんだと思たら、もうどこからわいてくるか分からん元気な心が湧いてきたね。もうそれこそお金の断りを行かなきゃ。銀行へ金預けげ行くごたるような、まあ何と言おうかね。
昨日壱岐の末永先生が発表しておられる最後に、信楽の最後のところに、「飛び立つ思いで」という言葉があるそうです。信心というものはこの「飛び立つ思いで」というのが必要ですという意味のことである。先生がある問題で、いろいろ、こう感じておる時にですね。あることがふと分からして頂いた時に、心の中に、はあこれが飛び立つ思いであろうかと思うような心が湧いてくる。これは自分で思おうとして出来る事じゃない。神様が与えて下さるのであるね。親の思いに触れた時に、親の思いが分かった時、心の中に、いわゆる飛び立つ思いがね、もうどんなに思っても、借金の断わり、足が重うて行けないような時であってもです。心の中に飛び立つ思いが生まれてきた。借金の断りは、もうその日きりでございましたがね。
そういう例えば土俵上に鍛えられに鍛えられて、その、おる時にですね。親の思いが分かる。師匠の思いがふんかる時ね。これは私に神様の願いが、期待があるからこそ、お徳を下さろうとする働きが思いがおありになるからこそ、鍛えておられるんだと分かった時ね。言わば親の思いが分かった時というのじゃないだろうかね。親が喜ぶという時には、その親の思いが分かった時じゃないだろうか。
私は味苦魅楽という、その苦労の味わいを本当にわかった時ね。その苦労から逃れようと言うのじゃなくてね。神様のいわゆる喜んでさえ下さればという、親が喜ぶ、ね、親先生が喜んでさえもらえればという一念とか思いというものは大変なことだなという、昨日の宮田先生のね。だから天地の親神様がお喜びさえ下さればと。天地の親神様が本当喜んで下さる事ならばどんな修行もいとわんというな思いが心に出来た時、私は神様が飛び立つ思いを心を与えて下さると思うですね。その心がお徳を言うならキャッチするというか頂けれる心の状態だと思うんです。
私は、もうあらためてあのこの味苦魅楽という、勿論楽ども自分でしようとは思わんということはもっとなんですけども。その味苦、苦労の味わいを、ただ聞いておっただけではそりゃほんにそうだな。苦労の味わいというけれどもです。本当に味わおう。本当に分かろうと言う時には、その苦労から逃れようというのじゃないわけですね。
そういう思いに至る時にね。私は神様のお喜びと、私共はその苦労の味わいを本気で味わおうと思っていない。苦労から逃れたいとは思っているけれども、本当に苦労の味わいを味わおうと思ってないね。その苦労の味わいを味わおうと腹を決めれる。一心発起が出来る。そういう心をですね、神様は喜んで下さる。
私あらためて「味苦魅楽」という、あのみ教えの、まあそしてね。私共は、その、本当にその苦労の中に、その味わいをいよいよ分かろうとこう構えを作った時にも、神様がもうその姿にね、見とれておられるというか、喜ばれとるというかね。そこだね、そこなんだとこう横の方から神様が言っておられるような感じを、昨日は受けたんですけれども。そんなにして神様が喜んで下さることならば、一つそういう苦労に、言うならば修行の中身にね、分からしてもらうことに取り組もうという気が起きてくるわけでありますね。
屑の子ほど神は可愛いとかね、屑の子があれは可愛いのが親の心じゃ、というその今度は親の心が分かろうと努力する。そして親の心に添おうと思う心こそ、私はお徳を受ける。
「信心しておかげを受けてくれよ」という表現の中には、様々ありますね。ただお願いをしておかげを受ける。信心によって力を受ける。神様を信ずる力が段々生まれてくるね。いよいよ私は神様が願っておられるのは、「氏子信心しておかげを受けてくれよ」というのは、信心してお徳を受けてくれよということ。このお徳ばかりはもう、人間お前達でなからなければ頂かれんのだとね。それもならその気になっておかげを頂かないと頂けない。それがお徳である。
「信心してお徳を受けてくれよ」という神の切々心を聞く思いでその苦労に思うておる。その難儀に取り組ませて頂けたらね。素晴らしいと思うんです。はあ自分が一生懸命なら修行しとると、神様がもう、見とれる思いで、あの喜んで見ておって下さるんだと思ったら、何かその苦労と思うておった苦労が、苦労ではなくてね。修行になってくる。それだけではない。神様が与えて下さるものは心の中に、それこそ飛び立つ思いを神様が与えて下さるということであります。
どうぞ。